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愛媛工場
菊本第一製造部福田英博 -
石油化学業務室井上剛
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石油化学業務室白井正恵
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IT推進部馬暁川
PROJECT03
未来へつなぐ
住友化学の覚悟と挑戦
「ペトロ・ラービグ
第2期計画」
サウジアラビア中西部に位置する同国第2の都市・ジッダから北に約150km。広い土漠を走ると、紅海に面した小さなラービグという町の外れに、突如目を疑うような一面銀色の光景が出現する。照りつくアラビアの陽差しにぎらぎらと煌めき、視界の限りに途切れることなく連なるそれは、世界最大級の規模を誇る石油精製・石油化学の統合コンビナートだ。運営するのは、住友化学と同国の国営石油会社であるサウジ・アラムコの合弁企業、ペトロ・ラービグである。
コンビナート開発の第1期は総事業費約1兆円、建設に従事した作業員は数万人という途方もない規模で実施され、2009年にその稼働を開始した。世界最大級というスケールメリットと石油精製・石油化学のシナジーを追求し、ガソリンをはじめとする石油製品およびポリエチレン、ポリプロピレンなどの石油化学製品を製造している。
一方、第2期では既存コンビナートを拡張してさらなる高度化を追求する。第1期に匹敵する総事業費をかけて、エタンクラッカーの増設および世界最大級の芳香族プラントの新設を中心に、住友化学の独自技術や他社の最新鋭技術を導入した石油化学プラントを建設し、付加価値の高いさまざまな石油化学製品を生産する計画だ。
2012年、第2期のプロジェクトが正式に動き出した。すでに第1期を経験しているため、第2期に従事するメンバーへの周囲の期待は大きいものがあった。しかし、ラービグ計画そのものの種を植え、現在は第2期運転部隊の総責任者である佐々木義純執行役員は、このプロジェクトの難しさを当初より予見していた。
「第1期のチャレンジはゼロを1にする開拓者としてのそれであったが、今回は違う。すでに稼働している既存設備や会社のシステムに割って入って新たな設備と製品を導入し、価値を加えようというものだ。そこには間違いなく、摩擦や衝突が発生する。これらを纏め上げるには非常に高度な『統合』の能力が求められる」と。
住友化学とサウジ・アラムコは、本格的なプロジェクトの推進のためにプラントの設計・資材調達・建設、そして製造準備の大規模なジョイントプロジェクトチームを発足させ、日本・サウジアラビア・韓国・イタリアにおいてそれぞれの業務を開始した。
プロジェクトチームに集められたのは、多様なバックグラウンドをもつ専門家集団だった。その中には、長年製造畑で活躍し欧米企業と住友化学の合併会社での業務経験を持つ福田、プラントエンジニアリング会社から転職し第1期からラービグ計画に携わる井上、技術系の帰国子女でプロジェクト組織設計・人事・教育を担う白井、海外大卒で新卒採用され、中国語・英語・日本語を自在に操る若きエンジニアの馬が含まれていた。彼らは、佐々木が予言したとおり「高度な『統合(つなぐ)』」という課題と戦い続けることになる。
プラントを安全かつ円滑に立ち上げるためには、経験のある優秀な運転員の確保が鍵となる。プロジェクト人事を担当していた白井はこれを最優先課題と捉え、早い時期から採用に奔走していた。しかしあらゆる手を尽くしたものの2013年には採用はいよいよ困難を極め、白井は追い詰められた。「まだまだ産業が成熟していないサウジアラビアでは、やる気と若さにあふれた未経験の人材は十分に確保できます。しかし、問題は即戦力となる経験豊富な人材の獲得でした。スタートアップのスケジュールは厳格に決まっており、また当時は巨大プロジェクトが世界中で目白押しであったため、人材獲得の競争は熾烈を極めていました」と、当時の窮状を振り返る。
追い詰められた状況の中、佐々木からある打開策が提案された。それは「住友化学の熟達した運転員を数百名単位で組織化し、ペトロ・ラービグに一式派遣してプラントのスタートアップに従事させる」という前代未聞の計画だった。
熟練の職人集団を送り込む。この案は短期的には間違いなく最適解である。ただし、これは現地の自立を阻害しかねないという意味で諸刃の剣でもあり、ペトロ・ラービグ自身を含む社内外の慎重派からの抵抗も少なからずあった。「出口の見えない禁断の一手」と揶揄されもした。しかし、「このプロジェクト続行の可能性をつなぐには、今はこれしかない」。佐々木の強い説得に、住友化学はこの案に未来を賭けることとした。
この計画の本当の成否は、計算しつくされた周到な「舞台作り」ができるかどうかにかかっていた。白井は当時の苦労を振り返る。「運転員は皆、熟練の匠たちであり技術的には疑いようがないのですが、あらゆる面で勝手が違う海外で彼らが全力で実力を発揮してもらうためには、ふさわしい舞台を整える必要があったのです」。もしその足場が揺らぐと、大団円の出口が見えなくなる。
白井は計画を具現化すべく、世界中を巡って情報を収集して実行案を策定した。さらに日本と現地を何度も行き来し、現地関係者と計画の意義と実現性、実行組織、トレーニング、衣食住環境を含む派遣条件、コミュニケーションの問題など侃々諤々の議論を行い、最終的に実現に向けての合意を得ることに成功した。
2014年春、住友化学は国内外の事業所から集められた選りすぐりの「職人集団」のサウジアラビア派遣を決定した。同時に、住友化学は現地の数十人の若き運転員たちを長期にわたって日本に受け入れ、その早期教育までをも実施していった。それは、この計画を総力戦で支える覚悟の表明であった。
第2期計画のプラント建設がいよいよ終盤を迎えた2016年。建設部隊のテクニカルマネージャーを務めていた井上は、ある課題に直面していた。完成したプラントを建設部隊から運転部隊へ引き渡す「ハンドオーバー(管理責任の移管)」の会議がいたるところで紛糾し、手続きが滞り始めていたのだ。
井上は「我々建設部隊は決められた工程通りにプラントを完成させる責任があります。一方、運転部隊はそれを引き取り、長期にわたって安全安定なプラントを操業する責務を負うため、完璧な状態でのハンドオーバーを求めます。個別組織の目線に立てば両者の負う責任のベクトルは相反しており、ゆえにその衝突は必然でした」と、当時の状況を冷静に分析する。井上は第1期からプロジェクトに関わっていたため、その経験上、こうした事態を予測していた。そこで、手続きの抜本的な簡素化や、何十万個に上るパンチリスト(残工事表)を効率的に一元管理する新規システムの開発など、事前にさまざまな対策を講じていた。「それでも、事業会社である我々ペトロ・ラービグを中心に多数の組織や人が集まるプロジェクトは、元来、多様な文化や主張がぶつかり合う混沌とした世界です。どうしても理屈では解消できない膠着状態にしばしば陥るのです」
それは井上という人間が、真に試された正念場でもあった。世界中から集まったバックグラウンドが異なるメンバーに対し、それぞれの責務の枠を超えて「事業としての長期的な成功」という共通のゴールを共有できるのかどうか。そこに教科書で学んだプロジェクトマネージメント理論など通用しない。最後は人としての誠実さのみが試され、事態を動かし得る力となるのだ。
第2期計画の初期検討から数えて約7年。井上の奮闘は実り、ようやく事態は動いた。走り続けた井上にとって、このハンドオーバーの達成は一つの大きなヤマを越えたと心を震わす瞬間であった。だが達成感も束の間だった。「プラントに命が吹き込まれるのはこれからです。精魂を込めて設計したプラントが我々の手を離れ、無事稼働し、本来の能力を出してくれるのか。固唾を飲んで見守りました」と、井上は言う。たすきをつないだ後も、事業会社の一員としてプロジェクトメンバーの一体感は続いていく。
同じころ、運転部隊で用役責任者を務めていた武骨な技術者である福田は、井上たちから引き継いだプラントの立ち上げ準備に追われていた。用役というのはプラントで製造される付加価値のある製品そのものではなく、その製造過程を支える電気、水、空気や燃料等である。一見その価値は見過ごされがちだが、何万本とある配管やケーブルですべてが複雑につながっている巨大コンビナートでは、全体の安全安定操業を下支えする用役設備がインフラとして、プラントの生死のカギを握っている。ある箇所にトラブルが発生すると、間髪入れず他の用役設備やプラントが連鎖的に攪乱され、緊急事態ランプが灯る。いつだって真っ先にこれを察知するバロメーターが用役なのだ。
そんな縁の下で日々黙々と自分の仕事に当たっていた福田はある日、問題意識を表明した。「ここではプラント間に必要な連携が決定的に欠けている。これでは、コンビナート運用の血液とも言うべき操業情報が全体に流れず、いずれ事故や致命的なトラブルが起こりかねない」。しかし、すぐに多くの賛同を得られたわけではなかった。それは、コンビナートの隅々まで張り巡らされた用役設備の全体計画・管理を担当する福田だからこそ、察知できた危機であった。
ペトロ・ラービグのような責任範囲が明確な欧米型の組織は、成熟し安定した組織運営には向いている。だが日々状況が刻々と変わり、常に最新の情報が飛び交うダイナミックなプロジェクトでは、各々のプラントの有機的なつながりを理解し、職場を超えて柔軟かつ能動的に連携することが必要不可欠なのだ。
福田は、誰よりもこの課題の重要性を主張し続けた。各プラントの連絡体制を一人で綿密に組み直し、皆で確実に同じベクトルを共有する場を提供すべく、強引な手に出た。腰の重い関係部署すべての幹部と運転責任者に一人残らず直接声をかけて回り、毎日欠かさず円卓会議を招集し続けたのだ。初めは集まりの悪かった会議も、執拗な福田の説得が実り、徐々に情報共有の場として不可欠なものになっていった。「会議はスタートアップが完了するまでの12カ月間継続し、最後は第2期計画にかかわるすべての組織の一体運営の象徴と言える存在となりました。」と、福田は淡々と語る。だがこれこそが、第2期計画の全プラント群を円滑かつ無事故で立ち上げる偉業につながっていくのだ。
入社4年目で第2期計画に参加した馬は、「ここで自分に何ができるのだろうか」と一人で悩んでいた。まだ職歴も浅く、自分だからできる貢献があるのか、明確な自信が持てなかったのだ。運転部隊の一員として、プロジェクト全体の推進業務を担当していたが、それは入社以降の機械エンジニアとしての業務経験を大きく超えたものであった。特に、語学には堪能だったのに、なぜか思うようにステークホルダーたちを説得できずにいたことが苦悩の大きな理由であった。しかし、悩み抜いた末に馬は一つの結論にたどり着く。それは「互いの利害関係を理解することが交渉の基本」ということであった。
第2期計画のような大規模プロジェクトでは、ペトロ・ラービグ社内を初め、住友化学、サウジ・アラムコ、プラント建設会社、技術ライセンサー、銀行団など多くのステークホルダーがかかわっている。馬は英語で書かれた設計・ライセンスなどの技術資料やマーケティング・ファイナンスなどのビジネス資料を数千ページ以上も読み込み、ステークホルダー同士の関係性を理解した上で交渉に臨むことで、次第に自分の話に耳を傾けてもらえるようになっていった。それは技術に精通し、語学にも長けていた馬の高いポテンシャルが、たゆまぬ努力によって花開いた瞬間であった。
中でも、プラント本格稼働前の性能保証テストでは、プラント建設会社や銀行団との高度な交渉を進めるとともに、契約の抽象的な要求を具体的な技術情報まで落とし込み、現場レベルでの実施計画を策定する必要があった。ここでも馬は、ステークホルダーの考えを丁寧に理解し、関係者の合意を一つひとつ得てまわった。
「最初は各担当者間でメッセージを伝える役割しかできませんでしたが、プロジェクト全体への理解を深めるにつれて、自分が最善と信じる案へ周囲を導くことができるようになりました」と馬は自身の仕事を振り返った。
こうした数々の苦難を乗り越え、第2期計画で建設したプラントは2016年から順次稼働を開始した。
住友化学の思いに応え、派遣された職人集団は確かな運転の腕を見せつけ、プラントを次々に立ち上げていった。だが当然、最後に待ち受けているのは「早期自立のための現地運転員への技術継承」というミッションであった。育児休業を経てプロジェクトに復帰した白井は、この残された大きな宿題に向き合っていた。
日本の運転員たちはいわゆるOJTや「上司・先輩の背中を見て学ぶ」教育方法で育っており、暗黙知として一人ひとりの頭の中だけに蓄積されているノウハウが少なくない。「それらが運転員の持つ高い技能のベースであることは紛れもない事実です。しかし現地運転員への技術継承のためには、OJTなどの従来の手法ではなく、より科学的なアプローチが必要でした。そこでまずは、熟練の運転員たちの頭の中にある『技術』と皆が漠然と呼ぶものを『見える化』しなければなりませんでした」と、白井は振り返る。
白井たちは暗黙知を「見える化」するため、教育学の専門家とともに現地に乗り込み、何千項目におよぶ日々の何気ない運転作業の一つひとつを愚直に抽出し昼夜兼行して分析した。またその作業の目的や意味を聞き出すことで、現地運転員にも理解できるよう、体系的にまとめていった。
ある日、この膨大で精神的にも消耗する自問自答作業を重ねるうちに、白井たちは、自分たちも予期していなかった、ある真実に辿り着く。「運転員たちの頭の中にある『技術』の多くが、実は彼らの仕事に向き合う姿勢そのものに基づくものだとわかったのです」。この体系的な「見える化」作業を通じて、住友化学自身も初めてはっきりとその輪郭を捉えたのだ。我々の強み、国を超えて伝えたかったこと、そして住友化学として今後も継承すべきものは何だったのかを。
2018年12月。こうした取り組みが奏功し、現地運転員への「技術」の継承は予定通り一年半で完了。大きな賭けであった職人集団の派遣は、その成功をもって、両社の信頼関係を強固にし、新たな挑戦を乗り越えた自信を与え、そして住友化学の強さの根源を発現させた。その大舞台は、想定の何倍もの恩恵をもたらし、幕を下ろす。住友化学の運転員たちは現地からの感謝の餞と達成感を胸に、今まさに続々と帰国の途についている。
多くの住友化学の社員たちの技術と思いをつなぎ、ペトロ・ラービグ第2期計画の巨大なコンビナートは世界に轟く産声を上げた。佐々木は言う。「第1期ではまだ若手だったメンバーが成熟し第2期を見事に導き、ラービグ計画に憧れて入社してきた若い社員たちは新たに覚醒を遂げました。そして、世界の舞台に立つなど思いもよらなかった住友化学の運転員が、その確かな実力を証明し、さらに一回り大きく成長したのです。このプロジェクトの最大の果実はまぎれもなく、人財を育て、住友化学に次なる挑戦の扉を開いたことだと思っています」