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先端材料開発研究所斎藤 幸一
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バイオサイエンス研究所鈴木 紀之
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生物環境科学研究所小林 久美子
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生物環境科学研究所中野 徳重
PROJECT05
世界をリードする
ES細胞・iPS細胞
応用研究
プロジェクト
さまざまな組織や臓器の細胞に分化でき、ほぼ無限に増殖する能力を持つ多能性幹細胞「ES細胞」と「iPS細胞」。この細胞の登場で医学界は新時代へと突入した。病気や事故によって欠損した組織・臓器を補ったり、低下した身体機能の回復をはかったりできる再生医療が現実的になったからだ。2006年に京都大学の山中教授の研究グループがiPS細胞の作製に成功し、ノーベル賞を受賞したことで、その画期的な細胞の存在は日本中に知れ渡った。日本政府は再生医療を“日本が世界をリードする分野”と位置づけ、2014年に新たな法律を制定。現在も世界トップレベルの研究が続けられている。
住友化学の『ES細胞・iPS細胞応用研究プロジェクト』は、まだiPS細胞の存在しなかった2003年に始動した。コーポレート研究に特化した組織のリーダーを任されていた斎藤は「生物環境科学研究所は化学メーカーの安全性を研究する機関。再生医療への貢献も重要だが、まず自社の発展のためにここでしかできない多能性幹細胞の活用法はないか」と考えた。そこで思いついたのが、医農薬などファインケミカルの安全性評価を動物ではなく細胞で行う代替法(以下、代替法あるいは代替試験法)だ。生物環境科学研究所では、長年、迅速かつ簡単に安全性評価ができる代替試験法の研究を続けていた。その蓄積した技術を背景にES細胞を利用した代替法開発を国家プロジェクトに提案し、2006年から参画を果たした。斎藤は国と協力することで、ES細胞やiPS細胞を応用するコーポレートプロジェクトの重要性を社内外にアピールしていったのだ。
代替法による安全性評価は、動物の命への配慮が目的。研究開発においては、開発コストの削減、開発時間の短縮、安全性評価そのものの精度向上などメリットが多い。しかし、プロジェクト発足当時は「安全性の研究に多能性幹細胞を利用した前例がほとんどなく、先駆的でありながら、その有用性はなかなか理解されませんでした」と斎藤。プロジェクトの初期メンバーである鈴木は、まだiPS細胞が発見されていなかった当時、国家プロジェクトに参加しながら、ES細胞の分化能力と最新の分子生物学の技術を利用して簡便に催奇形性(発生毒性)を評価する試験法開発に取り組んでいた。幹細胞を使った簡便な試験法の参考文献はほぼゼロ。「情報がないため何もかも手探りで、結果を出すことがとにかく難しかったです」と当時の苦労を思い起こす。試験はただ行えばいいというものではない。ヒトへの安全性をより正確に評価するためには、マウスES細胞ではなくヒトES細胞がどうしても必要だった。そこで斎藤はヒトES細胞技術で最先端を走っていた理化学研究所へ中野らを派遣し、ヒトES細胞の共同研究をスタート。「安全性評価にヒトES細胞を使用する」という日本初の試みに踏み出した。同時に、生物環境科学研究所ではマウスES細胞から脳神経をつくり出し、その神経を使って安全性を評価する神経毒性試験法の開発も開始。もともと神経系を専門に研究してきた小林が中心となり、代替法開発に関する新たな国家プロジェクトに参画しながら推し進めた。
多能性幹細胞を安全性評価に用いる試験法開発は、世界でも有数の研究だった。今でこそ創薬や化粧品開発など多くの研究機関でES・iPS細胞由来の細胞を利用しているが、プロジェクトメンバーは長い間、研究への熱意と研究意義に対する懐疑的な周囲の環境の狭間で苦しんだ。どんなメリットが見込めるのか誰にも想像できない、新しすぎるテーマへの挑戦が仇となっていた。斎藤は「状況はいつも綱渡り状態で、何度もプロジェクト存続の危機に瀕しました」と当時を振り返る。いつでも思い通りの結果が出るわけではないのが研究だ。「どうやって報告すれば、このプロジェクトの重要性が伝わるかに神経をすり減らしていました」と鈴木も続けた。鈴木とともに代替法開発の国家プロジェクトに携わっていた小林は、「動物から細胞を取り出して研究するのではなく、ES細胞を分化させて新しい細胞をつくり出すところから研究できることにワクワクしました」と語る一方で、結果が出ても出なくてもスケジュール通りの開発を求められるプレッシャーはあった、と顔を曇らせる。理化学研究所のラボに詰めていた中野もまた、当時の複雑な心境を垣間見せた。「当時は、培養開始日をそれぞれ変えるなど細かな工夫を凝らして、ヒト胎児と同じような速度で成長する細胞群を、多い時には同時に数千個管理しました。実験が成功すればうれしいですが失敗することも多く、頭脳と体をフル回転させる毎日から解放されたときは、やはりほっとしました」。
※保護手袋、保護メガネの着用不要の実験作業
メンバーが研究の手応えを感じ始めたのは、プロジェクト発足から5年が過ぎたころ。くじけそうになる瞬間が何度もあったが、それでも諦めずに続けてこられたのは、研究者たちそれぞれがやりがいを感じて研究に取り組んでいたからだ。「開発した代替法試験の特許を取れたとき、すべて報われた気がしました。国家プロジェクトが火付け役となり、学会でES細胞に関するシンポジウムが設けられたり、講演依頼が来たりと、研究発表の機会が増えたことも、『もっといい研究がしたい!』というやる気につながりましたね」と語るのは鈴木。その言葉には確かな自信が宿っていた。小さな成功の積み重ねが研究の励みになるという小林は、「特定の化合物に反応する光る細胞をつくる技術・ノウハウは、住友化学が開発した基幹技術。自分の培養した細胞が実際に光っているのを見ると次の研究もがんばろうと思えます」と楽しそうに語る。再生医療の研究に関わっていた中野には、ヒトES細胞から世界初の立体網膜の作製に成功し、論文が著名な医学誌で高く評価された経験がある。「論文掲載のメールを受け取ったとき、思わず心の中でガッツポーズをしました」。その研究は現在、大日本住友製薬に移管され、網膜疾患の再生医療技術として更なる研究が続けられている。そして、苦労の連続だったこのプロジェクトは、iPS細胞の出現で業界全体から熱い視線を注がれていく。
生物環境科学研究所の今後の目標は、「化合物がヒトに与える影響と安全性」についての研究を、先端技術を取り入れながら更に究めていくこと。化合物の中には、動物には影響がなくても、ヒトに影響が出るものもある。動物を用いないとできない安全性評価もあることを踏まえた上で、「より正確にヒトへの影響を知るため、ヒトES・iPS細胞をうまく活用していきたいです」と小林の声にも力がこもる。また、農薬などを手がける住友化学では、害虫等に効果があってヒトに毒性のない製品開発が必須。鈴木は「害虫に効く化合物を選んで実験し、製品開発後にヒトに毒性があることがわかったら、コストも時間もビジネスもすべて無駄になります。ヒトES・iPS細胞を使って、化合物の毒性が出る根本的なメカニズムを研究していくことは、ビジネスにおいて重要な意味を持ちます」と今後の課題も呈す。さらに斎藤は、住友化学が開発した代替試験法を世界の公定法にできればと考えている。ES・iPS細胞を応用した安全性評価は全世界で行われているが、まだ各試験の公定法は存在しない。斎藤のもくろみが叶えば、住友化学はまた一歩、世界をリードする企業へと成長を遂げる。住友化学の人体にやさしい製品開発の「最後の砦」となる生物環境科学研究所。世界を股にかけた挑戦に終わりはない。
ES細胞※1・iPS細胞※2は、様々な条件で培養することで、体を構成する種々の細胞へと分化誘導することができます。化学物質のヒトへの影響評価の精緻化、実験動物の使用削減(安全性評価のin vitro化)などを目指し、ES細胞・iPS細胞を活用した安全性基盤研究を行っています。
※1:ES細胞:Embryonic Stem Cells(胚性幹細胞)
※2:iPS細胞:induced Pluripotent Stem Cells(人工多能性幹細胞)